18歳の壁 [音楽]

ギョーム・ルクー/弦楽四重奏曲ト長調
第1楽章 アレグレット クワジアレグロ
第2楽章 アダージオ ソステヌート
第3楽章 カプリッチオ ポコ アレグロ
第4楽章 ロマンチェ: アンダンティーノ モルト モデラート クワジ アンダンテ
第5楽章 ポコ アレグロ エ モルト スケルツォーゾ
第6楽章 フィナーレ:アレグロ アッサイ エ アパッシオナート
1888年の作品。
彼が18歳の時の紛れもなく意欲の漲りを感じる作品。
ただ、この作品は聴いてゆくうちに「弦楽四重奏のための組曲」という風なタイトルでも良かったのではないかと考えた。
あえて言い切ったところに彼の若さと志を感じさせる。
弦楽四重奏曲のために彼が書いた作品はこの大曲だけでなくて瞑想曲やオーケストラとの合奏などいくつかある。でも、正面から弦楽四重奏曲といいきったのはこの作品のみである。
ベートーヴェンの第14番を想起させるようなモチーフが聞こえ、4楽章にこだわらない曲作りはその辺の影響かも知れない。
だけどその影響は隠しようがないとしても、全体が醸し出す雰囲気は独特の醸成がされた春のワインである。
残念ながら彼自身の中で熟成するには彼の命はあまりにも短かった。
カデー(若い)フランス風の香気は同じト長調の傑作であるヴァイオリン・ソナタを想起させる。
第1楽章は素晴らしい雰囲気を持っている。
師であるセザール・フランクの作品を超えようとする気概。
対位する楽器の間に等閑に埋め込まれた余韻の質の高さ。
そして何よりフランクの渋みと広がりはないけれど、旋律の新鮮さと静謐の中に重ねられる色彩が抑えられているところが意志的で且つ若々しい。
主題間を繋ぐように奏されるベートーヴェンの霊感は決して浮き上がることなく音楽の中で落ち着いて悠々としている。
惜しむらくは醸し出される香気を突き抜けてゆく芯のある力強さの不足か。
でも、次の第2楽章の静かな歌と共にボクは好きです。
その第2楽章詠唱のようなモノローグが繰り返される中を高いヴァイオリンがその音形の頭上すれすれをかすめるように歌う。単純だけれど18歳という年齢の何処にこの歌があるのか。
ただ、逆に言えばここから熟成が始まるはずなのにという思いもある。
まったくとんでもない才能である。
第3楽章は好き嫌いが分かれる。このカプリッチオはまるでヴィヴァルディでも来ているような感じで、音楽が向かっていると思った軟構造の構成感がちょっと緩む。
次がまたロマンスのアンダンテでこれ自体は美しいチェロの響きが楽しめるのだけれど、演奏家が悩むところだろうね。
言いたいことを全て詰め込んだ楽章になっていて次の第5楽章の小さなスケルツォ楽章がもっと意志的だったらと思わせる。
そして古典的な構造に立ち帰ったようなフィナーレはもっと演奏家が我を忘れるようなのめり込み方をしてくれればこの曲の持っている広がりがでたろうにと思ったりする。
第一楽章からずいぶん遠くに来てしまった。
YouTubeはこの作曲家当たりの演奏を全曲聴かせる。いいんかなあ。
String Quartets & Piano Quartet
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: MD&G Records
- 発売日: 2004/09/21
- メディア: CD
冬お奨めのシンフォニー-2 [音楽]

秋からの続き。
ところがジジイが風邪でダウン。何とか更新。
書きかけて止めてましたが、ちょっと良くなったので。
サー・ヒューバートの5つのシンフォニーを全て紹介するつもりで今回は第4番目。作品を遡って第2交響曲。
サー=ヒューバート・パリー/交響曲第2番ヘ長調『ケンブリッジ』
第1楽章 アンダンテ ソステヌート
第2楽章 スケルツォ:モルト ヴィヴァーチェ
第3楽章 アンダンテ
第4楽章 アレグロ ヴィヴァーチェ
ブラームスの簡潔な書法がイギリスの理屈っぽく、渋いオーケストレーションと結びついた、ある意味代表作。
最初に聴くにはいいかも知れない。
渋く仄暗くて厚い序奏から、総奏のテーマに至る過程で、なるほどタンホイザーやローエングリン、ニュルンベルクのマイスタージンガー何かが聞こえてくる気もする。
パリーの時代に生きた作曲家はそれなりにワグナーの旋律からは逃れがたいものがあるのだろう。
徹底的にそれを迂回する処世を発揮しなければならなかったショスタコーヴィチやプロコフィエフのような用心深さはない。
19世紀から20世紀初頭に掛けて生きたこのイギリスの作曲家は、自らが学んだドイツ・オーストリアの管弦楽法を実に実直に堅持している。
これほど妥協なく、剥離なく、頑迷といえるほどに自家に取り込んだ音楽を構築してゆくプライドに大いに敬意を表する。
評価というのは、その対象を探し出してするものだから、今、彼にもその順番が回ってきたと言えなくもない。
でも、大まかに言って現代の評論家諸氏が古典からロマン派に至る著名な作曲家についてその再現芸術としての『演奏』よりも多くの時間を割いて論評するのをボクはあまり聴かない。
作曲家を評そうとすると、『…論』とかいう大層なことになる。
記録媒体がない時代の音楽は音楽そのものだけでなく、様々な僥倖や庇護によって選択的に生き残ってきたことも確かである。
サー=ヒューバート・パリーの音楽は自国イギリスを除いては、今ようやく目を向けられ始めたところで、CDをリリースしようとする音楽会社にしたって、UK輸入盤を翻訳したものを出すに過ぎない。
著名な作曲家の作品の著名な演奏家による演奏。それを論評するのに精一杯で、ボクのような鈍い感性をしていて何度も聴かなければ、一聴で判断できないものにとってはまさに無慈悲と言えるほどの即断即論が可能な評論家諸氏の論評はクルクルと丸めてはっしとゴミ箱に捨てたい。
つまりね。
ボクのような素人が何回も聴き返すにたる音楽は、どこか素晴らしいのですよ。
大衆から離れたものに未来はないのです。
てなわけで、この第2番はいいよ。
感覚的にあまり無駄なものを感じない。過度に描写的なものもなく、絶対音楽の土台にしっかり両脚を付けて朗々と歌われる。
第1楽章の伸びやかで懐の深い音楽。メンデルスゾーンの緩徐楽章のような柔美なニュアンスがあり、低音楽器に金管が重なる辺りから広がる辺りから糸を引くようにつながってゆくワーグナー的テーマが素晴らしい。
第2楽章のおそらくこれはこの副題の元になってるのではないかと思うけれど、彼に影響を与えたドイツ・オーストリアの先輩達にはない舞踏的旋律である。
新鮮でこれは素敵です。軽妙洒脱。
第3楽章の旋律の美しさは決して凭れることなく、節度を持った演奏に負うところが大きい。自国の作曲家に対するストイックな共感が溢れている。
彼の第5番のシンフォニーの緩徐楽章でもLPOの底力を感じたけれど、ここでも品格を強く感じる。
第4楽章は牧歌的な主題が高まって行き、この人もともと自分の中に持っていたブラームス的なものを強く感じさせる。
特にホルンの使い方は共通している。ブルックナーのようなオルガン的書法も、もともとこの作曲家がはじめから持っていた資質であることが感じられる。また、最もイギリス風であると感じます。
どの楽章も紹介に値するけれど、ボクとしてはこの素晴らしいスケルツォを
ブログの中の猫たち-94 [Brogの中の猫]
『開店休業』
ナナママさんちの
ナナちゃん
最近お邪魔するようになった『開店休業』のタイトルを掲げているブログの看板猫さん。
茶トラ猫とお見受けする。
失礼ながらちょっと変わった風貌をしている。
というのはボクが描いたポーズでは良くでていないけれど、
中尾 彬さんとは言わないけれど、間の横のいわゆるほお骨が発達していて上下左右の顔面比率がちょっと違う。
下顎が少し小さくて菱形。

妙に可愛い。
元の写真が凄く良い雰囲気で光が入ってる写真で、体色がよくわからないけれど、
例によって他の画像を参考に色を取りました。
サイドバーには映画『シャイン』のヘルプゴッドさん(実在のピアニスト)がトランポリンをやっているときのシーンで見たようなジャケットのCDが飾ってあります。
シャインの中のヘルプゴッドが弾いていたラフマニノフの第3ピアノ協奏曲では彼がカデンツァでオシア(長い方のやつ)を弾いていました。(映画の中の演奏は彼ではありませんが)
最近のピアニストはこれを苦もなく弾いているように思いますが、演奏技術というのはまさに運動競技のように進化しますねえ。
でも、いまだにラフマニノフ自身のようにこの曲を何の工夫も感じさせず、サラリと当たり前のようにあっさり弾いている演奏に出会ったことはありません。
彼は世界中でただ一人困難に挑戦しようとしたのではなくて、自分の能力でゆとりを持って弾ける曲を作って自分で弾いてたんですから。
凄いね。
これは本物のダヴィド・ヘルプゴッドの演奏です。
ハンガリアンラプソディを
似て非なるもの [音楽]
ボルトキエヴィチ/ピアノ・ソナタ第1番ロ長調op.9
第1楽章 アレグロ ノン トロッポ
第2楽章 アンダンテ メスト エ モルト エスプレッシーヴォ
第3楽章 プレスト

ピアノ・ソナタをいよいよ聴いてみるかと考え、まず、第1番を聴いてみた。
ボルトキエヴィチの音楽を演奏している音楽家はあまりいなくて全集を出している人は例えばジョーニ・ソメロなんかが少し芝居がかっているけれど、安定している。
でも、日本では手に入りにくい。
ボクはスティーブン・クームズの演奏で聴いた(写真のジャケット)。
YouTubeでも全曲が聴けるはずです。
ピアノソナタはラフマニノフほど複雑な和音が氾濫する抒情の大河のような、いわば特別な手を持っている演奏家以外にとっては悪魔的な技術を要するというほどのものではない。
もともと作曲家自身の技量がリミッターになっている部分であろうと思う。
ラフマニノフとはこのジャンルに限っては似て非なるものと言うしかない。
でも、決してボクは嫌いではなくて、感性の趨りを客観的に抑制しつつ作品を形式の枠に収めて纏める技術は極めて高いと考えている。
それはこの作品を演奏する者にとってそのモチベーションを創造的再現に置けるか、作曲者の技量を凌駕することのみに大半のエネルギーを使わなければならないかというアスレティックな側面にウエイトを置かざるをえないかという大きな相違にたどり着く。
ラフマニノフの音楽は素晴らしいとボクは思うけれど、演奏がそれを凌駕することは生半可なことではない。
ボルトキエヴィチのソナタには、聴いていて圧倒されるところは少ないけれど、「ああ、主旋律の後ろを飾る旋律が控えめなのにショパンみたいに綺麗だなあ」とか「ここを聴かせたいんだなあ」とかそれが自分の好みに合うかとか色々考えながら何度か繰り返して聴ける楽しみがある。
但し、それをラフマニノフで出来るような良い耳をボクが持っていないことにも大きな原因があるんだろうけどね。
で、肝心のピアノソナタだけど、
むしろチャイコフスキーに近くて(チャイコ先生もソナタを書いてるんだよ。)中間部の緩やかな部分はショパンのインスピレーションに近い。
もっと明快な旋律線があり、すっきりと纏まっている。
第1楽章は最初のピアノソナタでベートーヴェン以来多くの作曲家が取り入れてきた”運命の和音”のアレンジからはいる。嫌味がないのはそれ自体にあまり思い入れがないので以後のショパン風の旋律にスムーズに耳がついてゆく。
破天荒なリストのロ短調のバスで採られたアイデアがうまく昇華されて融合している。
ここはさりげなくやらないと諄くなるだろうね。
色々考えながら聴いていると車の中で聴いたときのような纏まった印象がなくなってしまった。
車の中は器楽を聴くと聞こえない部分がどうしても出てくるけれど、却って音楽の中にある主要な流れが良く掴めてくる。改めて部屋に中で聴くと微細な部分が聞こえてきて音楽全体が浮き立ってくるようだ。
第2楽章はYouTubeの演奏を紹介するけれど、とても右手と左手の間合いと歌の流れが美しい。
左手の控えめな旋律の上下が美しい。
第3楽章のリズムはドイツ・オーストリアでなくてここら辺に彼が生まれた風土の持つ匂いと研磨された作品のフィナーレにふさわしい工夫がされている。
ブログの中の猫たち-93 [Brogの中の猫]
今日もOMO日和

OMOOMOさんちのう のにゃん
シンプルでパステル調の画風がとても魅力的なOMOOMOさんちのうのニャンはきわめて標準的なタビーです。
ボクはディティールにリアリティを持たせ、数億年前の生物の想像図を描くことが仕事なので、接点があまりないのですが、OMOOMOさんの明るい絵は魅力的です。
ブログの猫のイラストではボクよりもずっと先輩になります。
だから猫好きの皆さんで知らない人はいないのではないかな。
他人の空似というのがあるけど、種が僅少の猫属も人と同じように見た目が似ている猫はたくさんいる。
不思議と体形まで似るのはおかしい。
うのニャンのようなサビ毛は難しいね。

そう言いながら、振り返ってみれば結構描いてる。
また、花火職人さんとこのアトム君とかデッサンを終えてるものはいくつかまだある。
柔らかな下毛の上にカバーされる少し強く短い毛足はまず下毛の色を取ってからその上に強く、濃い色の体毛を描き込む。
古生物と違って猫を描くのは趣味なのですが、昔専売公社でタバコのブレンダーをやってた人に聞いた話を思い出します。
彼は1日に200本以上のタバコを仕事で吸っていたのですが(もちろん肺まで入れず香りをテイストするのです。)昼休みになって気分転換をするとき、やっぱり自分のタバコを取りだしてきて吸っていたそうです。
何となく気持ちがわかります。

音楽はフレデリック・ディーリアスの前奏曲コン・モート
ディーリアスのピアノ曲は彼の他の作品同様穏やかで健やかです。
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心に描く物語 [音楽]

メトネル/ピアノ・ソナタ第8番嬰ヘ長調op.27『バラード風』
第1楽章 アレグレット
第2楽章 インテルメット-メスト
第3楽章 フィナーレ:アレグロ
珍しく歌謡性のある旋律が流れる。
硬質の削ぎ落とされた抒情がまだ薄く彫像の表面を覆っている。
ただ、風に曝されればすぐに乾いてしまうほどのリリシズム。
ピアニストにも因るのかもと、録音状態がよい作曲者自身の演奏も聴いてみたけれど、作品全体の印象はあまり変わらなかった。
何度も書いたけれど、メトネルは朋友ラフマニノフの作風を徹底的に研究しつつ、同時代に区別化された作風を確立するために、ラフマニノフと重なるようなリリシズムを自作にほとんど採用していない。
でもそれは彼にロシア的抒情性やメランコリーが欠如していたからではない。
きわめてスマートな思考であり、選択である。
彼の作風は誰かに似ていることもなく、誰かが似せようとしてもなかなか難しい。
それは作品に作曲家の情動のような主観的要素がきわめて少なく、打鍵から沸き上がるピアノの音が紡ぎ出す本来の音響によって綴られる調性を持った物語である。
それは感性に寄り添う共感を呼びにくく、今一歩夢中から遠ざかる。
第3楽章の主題は彼のピアノ五重奏曲に共通する自作のリートからとられているけれど、彼の創造性の中にある物語や寓話は決して漫然と快く、湿り気を帯びた歌に託されているわけではないので、果たして聴衆からラフマニノフに与えられたような称賛を受けることは出来なかったろう。
今、彼の音楽は再評価され、様々な演奏家によって紹介されてきたが、抒情性を敢えて犠牲にした彼が心に描いた物語に容易くたどり着ける聴衆は今もって少数派である。
彼が目指した音楽は、ラフマニノフに勝とも劣らぬ鉄壁の演奏技術を求めつつ、その誇示のみにとどまらない。
彼が心に描く物語は、この作品27でほんの少しボクにも易しげなページを見せてくれた。
ラフマニノフのように全てを物語らず、何度も聴き返しながら少しずつ呼吸が合わせられてくる。
色褪せない物語である。
メトネル自身の1947年の録音。ドイツグラモフォンの音源もあるけれど、ここは第3世代の演奏を。
ゼフェリン・フォン・エッカルトシュタインの演奏で第1楽章を
Medtner: Complete Piano Sonatas, Forgotten Melodies / Hamelin
- アーティスト: Nikolay Karlovich Medtner,Marc-André Hamelin
- 出版社/メーカー: Hyperion UK
- 発売日: 1998/10/13
- メディア: CD
Complete Piano Sonatas & Forgotten Melodies
- アーティスト: Nikolay Karlovich Medtner,Geoffrey Tozer
- 出版社/メーカー: Chandos
- 発売日: 1999/05/18
- メディア: CD
羽化 [音楽]
三枝成彰/チェロのためのレクイエムⅠ

とかく露出度が強いので
ちょくちょく大河ドラマの音楽なんかでシベリウスやブルックナーやブラームスをつまみ食いして作曲していらっしゃる髭の作曲家さんなどと同列に見なされたりすることがあるけれど、この人は凄い人ですね。
ボクの娘もさすがにゲームやガンダム逆襲のシャアなんかの音楽で名前だけは知っている。
東京音大の教授になる前の尖った時代は12音技法の急先鋒で確実に聴衆から乖離していた。いかなる心境の変化かテレビに出るようになる頃から音楽は暖かくロマンティックになっていった。
それは19世紀末から1950年代まで生きたドイツ・オーストリアの作曲家にそう言う作風の変化が聴けるようになったのとよく似ている。
彼は現代音楽を『理解する』一部の専門的音楽界からボクらの目線まで降りてきて、音楽を語り始めた。
音学が彼の中で音楽になったのかも知れない。
このチェロのためのレクイエムは彼が書いた2つの同名の作品の最初のもの。1988年の作品である。
2009年の夏から秋に移る季節の中で神戸ワールド記念ホールで開催された第1回1000人のチェリストによるコンサートで演奏されたものだ。
通奏のチェロの厚く広い大河の上を低く旋律の風になってチェロが鳴り渡って行く。
黙示する祈りの音楽が通俗のほんの少し上を軽やかに舞い上がって行く。
逆襲のシャアのサントラの音楽の序奏なんかいいよ。
その後の歌の部分はホントに軽々と作ったという手すさび感があるけれどね。
こういうのを聴いているはずだから、家の次女なんかもクラシック音楽のすぐ隣に座っているはずなんだけどねえ。
一聴ポピュラー音楽だけを作曲している先生とは異なり、管弦楽法に関してバックボーンの厚さが聴ける。
チェロのためのレクイエムはさすがに100人も集まると指揮者が必要で、画面がパーンすると結構名前のある方が演台の上に乗ってリードしていらっしゃる。
三枝成彰は堕落したという専門家がいたけれど、音楽する心に羽化したんだよ彼は。
ブログの中の猫たち-92 [Brogの中の猫]

ともぞうのひとりごと
Tomo-zouさんちのコナ
ロコちゃんを描いてからずいぶん経った。コナのデッサンはその間ずっとフォルダの中で半眼のまま眠っていた。
Tomo-zouさんのURLを忘れてしまって最近他の猫ブログさんのところからご訪問したけれど、かなりマイペースな方である。
ロコは白毛だと思っていたら目の色が涼やかな琥珀色で、これはサルトリューやロシアンブルーの特徴だね。
履歴を見とやっぱり、Mixロシアンブルーとあった。
三角形の顎の線や尖った鼻筋に血を感じる。

ミックス三毛猫なるカテゴリーがあるかどうか知らないけれど、そう言う扱いらしい。
でも、人間様のそんな決めごとなどお構いなしに光の中で超然としている。
眠いのか眩しいのか半眼が何とも思索的で心惹かれる。
ずっとっておいたデッサンは、タッチが古くなることもなく。
フォルダの中で正面を見据えていた。
ブログの写真を見ながら色を取って、ややグレイがかった白を線引きしてゆく。
どういう風に仕上げようかと迷うこともなく、一気に仕上がってしまった。
イメージって凄いね。
古生物を描いていてもたまにこういうのがある。
そういう絵はずっと前に書いたものでも学説や経験を超えて時間の中で呼吸している。
上手く描けたと自画自賛。

ロシアより敬意を表し セザール・キュイ/前奏曲op.64第2番
ロシア民族楽派の理論家であったが、作る曲はロマンティックでした。
帰る場所 [音楽]

モーツァルト/ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調 K.280
第1楽章 アレグロ アッサイ
第2楽章 アダージオ
第3楽章 プレスト
夜明け前に一仕事して、さる博物館のプレート用の画像を仕上げ、FFFTPで仲介者のサーバーにアップロード。手許に画像を残さない売り切り。最近珍しい。
久しぶりの休みに、もう少ししてから寝直そうと思いつつ夜が明けた。
ために貯めた衝動買いのCDを聴きながら何か描こうと思ったが、ぼーっと音楽を耳に入れながら机に脚を載っけたままうたた寝していたらしく、CDプレーヤーのリモコンが手から滑り落ちる音でビクンと目が覚めた。
棚から取りだしてCDを入れ替える。
結局モーツァルト。
久しぶりにヘ長調のソナタを聴いた。K280。
モーツァルトのクラビーアソナタとしては第2番。跳ねるようなリズムと短い楽想の袖から裾に鏤められるギャラントな装飾。
目の奧が冷たい水で洗われたように覚醒した。
多分こういう着想はシンプルな旋律線が決まっていて後はほとんどその場の即興で様々な装飾がされたのだと思う。
現代の演奏家が同じことをやれば「遊びすぎだ」とか評されるだろうね。
水戸黄門のテーマ(「人生楽ありゃ」ってやつ)でドングリコロコロが歌えるように、詩が付いている音楽ならいろんな嵌り様があるだろうけど、ピアノの点線に施される飾りはどんなに綺麗なビーズを通しても、元の針金から離れることは出来ない。
それが出来るのは作曲家を兼ねる本家だけだ。
その変幻自在の本家の気分にぴたりと寄り添うことは至難に近い。
だから最大公約数の自筆譜に演奏家は嵌って行く。
でも、そうはならない演奏家もいるね。
例えば
ビースの並びを変えずに針金を曲げることが出来るグールド。
原曲者と同じく、一度として同じ演奏をしないグルダ。
まるで自分が作った曲であるかのように振る舞う。
鍵盤楽器がピアノフォルテの登場でその可能性を広げ始めた頃。チェンバロの薄く軽快な鍵盤の戻りが生む様々な微細に鏤められる装飾。
ダイナミズムがチェンバロを超える硬質な音階に曝される一瞬。
第2楽章のアダージオの縦に深い表現の幅はバッハのフルートソナタか何かで聞いたような古風な響きを交えながら新しい光に満ちている。
感じ方によって様々だろうけれど、経験によって出来る約束された音の流れではない。
彼の音楽を生む脳髄のどこかが天と繋がっている。
その余韻の醒めぬ間に始まるプレストのぴりぴりするような新鮮。
グルダで聴きたい。
ひねくれ者の音楽箱-1 [音楽]

セルゲイ・ボルトキエヴィチ/交響曲第2番 op.55 1937年
第1楽章 アレグロ マ ノン トロッポ
第2楽章 ヴィヴァーチェ
第3楽章 アンダンテ ソステヌート
第4楽章 ヴィヴァーチェ アラブレーヴェ
セルゲイ・ボルトキエヴィチへの評価は高くない。
1877年に生まれ、1952年に没している。ラフマニノフの4年後に生まれ、5年後の他界していることからすればほぼ活躍した年代は重なっているといえる。
彼はラフマニノフのような巨大な手も、メトネルの閃光の指先も持っていなかった。
自作をアピールする力量は一歩も二歩も当時の巨匠には及ばなかった。
作風もドイツ・オーストリアが長かったためか当時のリストやショパン、ロベルト・シューマンなどの影響を受け、チャイコフスキーのノスタルジーを受け継いでいて、悪く言えばラフマニノフのようにそれらの芸術家の影響を昇華し切れていない憾みがある。
ラフマニノフが結晶化したロマンティシズムを透徹したのに対し、彼の作風は安定せずに揺れている。濾過しきれていないメランコリーが作品を通俗化させる。
しかし、だ。彼はそんなことは十分わかっていて自分の才能が何処にあるか教壇に立ち音楽学生と向き合う間に吹っ切ったようだ。
ラフマニノフの作風に似た若者が楽界にデビューすれば第二のラフマニノフといわれる。
それを払拭するには徹底した本家の研究が必要になる。
本家が行わなかったことを徹底的に自分の音楽に活かしてゆく。
それは既にメトネルが行い、メトネルはそれによって多くの犠牲を払い、その高い音楽性にもかかわらず、いまだに日影にいる。それも見識である。
メトネルの作品に対する揺るぎない自信は自分のよって立つ足場をしっかりと自分の足で踏みしめているからだと思う。
ボルトキエヴィチはそこまで徹し切れていない。
作曲家として常にラフマニノフと比較され、純度の点において後塵を拝してきた。
それでも、僅差である。
僅差であるが聴衆がどちらに耳を傾けるかそこには大差がある。
でも、デジタルと音楽の氾濫する時代に生きながらえているこのジジイは、さんざん聴いてきたラフマニノフから隣のボルトキエヴィチに新鮮さを覚えるのである。
まあ、いつもはマグロの中トロに刺身用のたまり醤油をつけるが、ちょっと濃い口の普通の醤油を付けてみたら意外と美味かったようなものだろうか。
で、前振りが長かったけど、ボルトキエヴィチのシンフォニーである。
第1楽章はヴァイオリンの鋭い入りからトレモロの中を管楽器に渡されてゆくテーマ自体が乾いた砂を握りしめたような旋律の固まりで少し力が入れば崩れてしまいそうな危うさを持ち、ロシア的な金管の滑らかな皮膜の中で音楽が揺らぐ。
ラフマニノフと同じナハトムジーク(夜の音楽)である。ただ抒情は滔々と大河のように二次元的に流れるのではなく、どちらかといえば洗練されたチャイコフスキーのように響く。
第2楽章はスケルツォだろうね。ロシアっぽい。マンフレッド交響曲のような金管の使用や遁走する弦楽の旋律が現代風に整えられたチャイコフスキー。
時折浮かび上がる弦楽の総奏には作曲家の個性が覗くが、この楽章はいわゆる伝記的な交響詩のようで、その意味でロマンティックである。
第3楽章のアンダンテはこの作曲家のカンタービレの美しさと音楽の滑らかな連鎖が際立つ。
仄暗さから抜けきれない夜明け前の縹色から朝日の緋色が幾筋もの帯を夜空に趨らせるように広がり、それが薄くなった夜空をおおう前に低い雲に遮られ、夜か朝か区別が付かなくなる暗さの中で、暖かい風が吹く。
一瞬の全休止の後に吐き出されるメロディが耳に残る。
こういう音楽をイギリスのオケにやらせるとじつにうまいなあ。
インテンポで切り捨てながら仄かな暖かさがある。
第4楽章 ロシア音楽のフィナーレらしい。でも、高揚して行く音楽に使われるのは古典的な手法である。シューマンの影響かこれでもかという泥臭さがなく、金管に出る歌の土っぽさが奇妙に調和する。1937年の作品だから二度目のオーストリア滞在期の作品で彼はそこで人生を終えるのだけれど、室内楽にしろ他の管弦楽にしろオーストリアにいるときの作品が充実している。
ここでは第2楽章を



























































