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『君を乗せて』 [雑考]

宮崎駿さんお疲れさんでした。

 

報道されてからしばらく経ったけれど、ちょっと話題になったことがあって今さらながら書いてみた。

最近は一作終えるごとに引退を口にされていましたが、どうも今回は本気のようです。
初期から後年の作品まで、それぞれに観客としての想い出はあるけれど、10数年を経ても新たな発見ができる、色褪せぬ作品というのは並大抵ではない。
登場人物にはさほど沢山の役者を構えていたわけではなく、プロットの変化によって彼の描く人物のキャラクターは様々な役回りをこなす。
執念深く小知恵が効く大尉さんが、パン屋の親方になったり、気の荒い炭坑夫になったりする。
豚やタヌキや河童はちょっと異質だけどね。
アニメ映画としてとても印象に残ったのは、あまりそれまでテレビでは観なかったルパン三世の『カリオストロの城』。
モンキーパンチの漫画はよく読んだけれど、テレビアニメは何処かぬるかった。
ストーリーの流れの中に組み込まれた幾重にも重なるプロット。善悪の一筋縄では行かない錯綜と一気に大団円に突き崩してゆくダイナミズム。
支えているのは膨大な背景画と言葉である。
宮崎アニメの構造が垣間見えた。
そして登場人物の動きの新鮮さ。ルパンを襲う暗殺集団の動きは後年の英雄『ユパ』の闘いの動きそのもの。大胆で鷹揚。勧善懲悪のストイシズムが強く描かれた初期の作品から善と悪の背景を語らせつつストーリーに流してゆく後年の作品に受け継がれてゆく。
人間的にストイックな悪人は出てこない。
誰かの純粋さに動かされて変化してゆく人間的な矛盾と揺れを心に持っている登場人物が少なくない。
ちょっとひねくれた人間愛に満ちている。
そういう物語を密度の濃い人物や背景の動きで支えてゆく
アニメーターとしての仕事は、絵コンテだけではなく、これを数万枚のセルに描き込んでゆく膨大であるが故に妥協しやすく、機械的になりがちの作業を自戒しつつ、自分のイメージの到達点に引っ張ってゆく。
全てが忍耐を必要とし、色彩感覚は倦んでゆく心と別のところで働かさなければならない。
ジプリの作品は、そこに0と1の数字の羅列が産むクリアで汚れのない画像の展開を頑なに拒んできた。

10枚の葉がついた木の枝がある。
風がその枝の付け根から先端に向かって1枚目の大きい葉から先端の若い小さな葉先まで吹き過ぎてゆく。
数瞬でそれぞれの葉は葉先に向かって勝手な方向にめくれ、その角度により葉裏と葉表に均等に光が当たる。
風の当たってゆく順番に光と緑は極限の色の濃淡の選択の中で、おそらく、凡百のコンピューターグラフィックスがあっという間に創り上げてゆく、製作の規則性とは相容れぬ作業の中で生まれる。
そこには制作者であるアニメーターが満足するだけの膨大なセル画が費やされる。
全てが手作業である。
アナログの作業が続き、それは一枚の葉の動きが重ねられるセルの中で生まれる微妙なズレに助けられ、生きた風が当たっているかのように震え、翻る。
それは自然の持つ曖昧さを深いところで支えている。コンピュータの明確な数値からはじかれた動きのダイナミズムと精度からは生みようがない偶然である。
それを自分の中に取り込み、納得して次に進む。全く、何という頑迷で、気の遠くなるような作業だろうか。
後年、ひとつの作品を作り終えるたびに『もう、やらない。アニメは終わりだ』と引退発言を繰り返していた宮崎氏の気持ちが痛切に伝わってくる。『冗談じゃネエや』と思うんだろうネ、その時は。
でも、作り終えたら、また次の熱に囚われる。

そんな作業をどう組み立て、どう自分の体力と精神的な持続力と相談しながら進んでゆくか。
設定したゴールまでのプロットを重ねたストーリーの終わりにまで続く疲労感に堪えられるか。綱渡りのような毎日だったろうね。
彼が激怒した『ゲド戦記』。それは彼が長年プロットを何度も組み直し、暖めてきたものだと思う。
物語の膨大さを自覚し、どこから創り上げるか様々なことを抱え込んで想定しているときに、自分の息子がさっさと大省略版を作ってしまった。
悔しかったろうねえ。あんなに簡単に作られたら。
暖め過ぎた卵は孵ることはなかった。

『動くハウルの城』はボクにはまだよくわからない作品です。
宮崎氏がどの辺でこの作品に納得されているのか、正直わからないままです。
描かれたいくつかの正義のあり様の違いがそれそれの生存するものの立場から妥協出来ない形で呈示されていた。
全てにわかりやすい解決を与えることはできなかった。『もののけ姫』では解決に行く前に『神』=自然=だいだらぼっちによって幕が引かれ、それを各々の立場の人間や動物が大きな結論の中で生きることでそれぞれの立場を自覚した。ハウルでそれと違ったものがあったのか…
アニメーションは実写で役者が演じると絵空ごとになってくる。
個々の役者の作り込んだ役の背後にある人間が真っ直な内容を複雑なものに変えてしまう。それを役者の存在感と言い換えてもいい。
アニメのキャラクターにはその存在感というものがない。
リアリティを生むものは実写よりもいっそう背景が負うところが大きい。アニメの登場人物の表情にはその時点が写るだけで、深い中身や背負った過去などは声優の声や物語が創ってゆく。
戦争を描くと表現者としては結論に直接結びつけることが簡単になってしまって、その中に描きたかった生き物の矛盾はキャラクターの平面的な表情からは滲み出るものではない。苦しんだと思うね、宮崎さん特にハウルでは。
『もうやめだ。もう、たくさんだ。こんなしんどい仕事はこの年でやれる仕事ではない』と思いつつ仕上げてきたんだろうね。
職人の芸にはその葛藤が微塵も見えるわけではないけれど、平穏が訪れた後、再び表現者として年齢に関係なく湧いてくる『熱』をどううっちゃってゆくのか、心配するのは大きなお世話だろうね。

ほんとにお疲れ様でした。

ジャン・ジローの作品がYouTubeで拾えました。昔から宮崎さんに影響を与えた漫画家ですが、ナウシカあたりでは一番はっきり出てきますね。
ジャン・ジローは漫画家としてはメイビウス(メビウス)という名で知られています。

 

 

ラピュタのテーマである『君を乗せて』は様々な演奏形式がありますが、ホモホニーとして耳に馴染んだ音楽を弦楽四重奏曲に分解統合することに意味があるかどうかと言うことは別にして、単純に気に入ってしまった演奏です。お口直しにどうぞ。


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すが

Mineosaurusさん

はじめまして
ブログランキングからまいりました。
ジブリ映画のご考察、圧倒的質と量に驚きながら拝見しました。
「ハウルの動く城」がよくわからない作品というお話で、
私としては、子供二人を連れての、映画館での思い出があります。
すごくシンプルですが、魔宝でおばあちゃんになった少女の恋
の物語、詰まるところ、お年寄りが見れば若返っての恋に対す
る憧れとも取れましたし、逆に若い方見れば年輪を重ねた
お年寄りが深い意味で純粋な恋をするんだよ、みたいな
夢物語かなぁと思っておりました。

まあ、宮崎さんの映画は一言で語るにはいろんな要素が詰まっ
ていますので、人それぞれ捉え方が様々という前提ながら
普遍的なテーマはファンタジー=夢を見ようよ、という風に捉え
ていつも見ています。

「ハウルの動く城」については、星が降ってくる幻想的な色使い
も、なんかほんとに夢みた様な印象が鮮烈に残っております。

すみません。ちょっと、違うかな?ともお思いましたが、一言
残したくてお邪魔いたしました。

応援ポチッとしていきます。

よろしかったら遊びいらしてください。

よろしくお願いいたします。
by すが (2013-10-05 21:39) 

Mineosaurus

すが様:ご訪問&nice、コメントまでありがとうございました。ご訪問させていただきました。PCは仕事で絵を描く時の道具でありますが、困ったことに4台全てXPですわ。VISTAが出たときにへそ曲げてしまって、以来頑迷に使い続けております。
by Mineosaurus (2013-10-05 22:13) 

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